福原有信(ふくはらありのぶ)

福原有信(ふくはらありのぶ)資生堂の創業者

資生堂創業者

福原有信(ふくはらありのぶ)
福原有信(ふくはらありのぶ) 資生堂の創業者
福原有信
(ふくはらありのぶ)
 資生堂の創業者
嘉永元年4月8日〜大正13年3月30日(1848〜1924)
千葉県南部の安房に生まれる。資生堂の創業者。
漢方医の祖父の影響を受け、17才のときに江戸に出て織田研斎のもとで西洋薬学を修める。その後、幕府医学所に入る。明治維新後は大学東校(東京大学医学部の前身)に学び、海軍病院に勤め、海軍病院薬局長となる。その後、官の職を辞し、銀座で「資生堂」を開業。医薬分業を唱え、独自の薬剤を製造・販売する。日本初である「練り歯磨き粉」やヒット商品「脚気丸」で売り上げを伸ばした。「化粧水」の開発にも成功し、化粧品業界に進出した。さらに、日本で初めてのソーダ水を売るなどして食文化にも貢献する。また、資生堂の基盤を強化する一方で、帝国生命保険の社長として保険思想の普及と事業拡大にも貢献した。
1848(嘉永元年) 千葉県南部の安房に生まれる
1865(元治元年) 17才のときに江戸に出て織田研斎のもとで西洋薬学を学ぶ
1871(明治4年) 23歳の若さで海軍病院薬局長となる
1872(明治5年) 海軍病院薬局長の職を辞し、
日本初の洋風調剤薬局として東京銀座に「資生堂」を開業する
1877(明治10年) 西南戦争で西洋薬品が大量に売れる
1888(明治21年) (日本初の煉歯磨「福原衛生歯磨石鹸」を発売
設立発起人として帝国生命保険(現在の朝日生命保険)の設立に加わり、社長として生命保険の普及に貢献
1893(明治26年) 海軍軍医総監の高木兼寛説に基づいて開発された「脚気丸」を発売。
日本初のビタミン剤だったと推定されている
1897(明治30年) 化粧品事業に進出し、化粧水「オイデルミン」ほか3品を発売した
1902(明治35年) 東京銀座の資生堂薬局内に「ソ−ダ・ファウンテン」(現・資生堂パ−ラ−)が開かれる。
1915(大正4年) ヘアトニック「フロ−リン」が発売された。事業の主体を薬品から化粧品へと移す。息子の福原信三が資生堂を継ぐようになり、本格的な香水制作がはじまる
1917(大正5年) 化粧品部門を独立させて、今日の資生堂の基礎を築いた
1918(大正6年) 「七色粉白粉」を発売
1918(大正7年) 資生堂の特製香水として「梅の花」「藤の花」「谷間の姫百合」「匂い菫」「ジャスミン」「ヘリオトロ−プ」など21種の香水の名が雑誌「婦人画報」に広告掲載された
1919(大正8年) 「雪姫」や「月見草」という名の香水を発売した
資生堂化粧品部(現 ザ・ギンザビル)2階に「陳列場」として「資生堂ギャラリ−」オ−プン
1924(大正13年) 永眠。76歳で生涯を閉じた。

明治5年(1872)、新橋―横浜間の鉄道開通とともに、洋風煉瓦づくりの銀座の街並が整った。洋食屋、パン屋、洋服屋などのハイカラな店が並び、煉瓦敷きの舗道を断髪洋装の男女が闊歩した。ちなみに“銀座の柳”は明治中期からで、当初は松、桜、楓の街路樹だったそうだ。
  この年、資生堂も日本初の洋風調剤薬局として出雲町(現在の銀座七丁目)に創業した。

創業者の福原有信(ふくはらありのぶ)は、嘉永元年(1848)、安房(千葉県南部)の郷士の家に生まれた。

漢方医を祖父にもつ福原有信は、17歳で江戸に出て、織田研斎のもとで西洋薬学を学んだ。

その後、幕府医学所に入り、明治維新後は大学東校(東京大学医学部の前身)に学び、海軍病院薬局長に就いた。

  福原有信は、その地位に安住することなく、医薬分業の実践を志して「資生堂」を開業した。世間に粗悪な薬品が多いことを憂えて、高品質な薬品を供給したいという望みがあった。この時、弱冠23歳であった。

  “資生”とは、易経の“至哉坤元 万物資生 乃順承天”に拠る。
  「地の徳はなんとすぐれているのだろう。万物はここから生まれている」という意味である。

福原有信は商号にこの「資生」を掲げたところに、東洋的な精神と西洋科学を融合しようという“和魂洋才”の理念が見える。しかし、開業当初は高価な薬品ばかり扱ったため、経営はかなり苦しかった。

  明治11年から、『けはへ薬 蒼生膏』、健胃強壮『ペプシネ飴』などの製造販売を開始した。当時の広告には横浜、名古屋、京都、松山などと記載されているので、取次店は順調に全国に拡大したようだ。

明治21年には、日本初の練歯磨『福原衛生歯磨石鹸』を発売した。従来の歯磨粉は、焼き塩や房州砂に香料を混ぜたものにすぎなかった。『福原衛生歯磨石鹸』はその10倍の値段だったが、歯石・口臭除去の効能が支持され売れ行きは上々だった。内国勧業博覧会では福原有信は褒状を受けた。

  明治26年発売の『脚気丸』は、海軍の兵士に脚気が多いことから“食物の配合不良説”を唱えた海軍軍医総監の高木兼寛説に基づいて開発された。本邦初のビタミン剤だったと推定されている。その後、高木が開設した東京病院の薬局経営を任されたことで、資生堂の名はさらに高まった。

明治30年、資生堂は、オリジナル商品として高等化粧水『オイデルミン』などを発売、化粧品事業に進出した。『オイデルミン』は、福原有信の大学東校以来の友人である東京帝大教授長井長義の処方になるもので、ガラス容器の美しさもあって“資生堂の赤い水”として評判を呼ぶ。『オイデルミン』は現在も愛用される100年以上続く超ロングセラー商品である。

福原有信の事業は化粧品にとどまらない。明治33年の欧米視察旅行のおり、米国のドラッグストアでソーダ水製造機が目にとまった。さっそく、機械一式、シロップやコップ、ストローまで輸入して、明治35年に『ソーダ・ファウンテン』(現在の資生堂パーラー)をオープンした。

資生堂創業者 福原有信(ふくはらありのぶ)の名言・言葉

「見せかけの模倣はダメだ。やるなら徹底的に根本から始める」
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