古河市兵衛(ふるかわいちべえ)

古河市兵衛(ふるかわいちべえ)古河グループの創業者

古河グループ創業者

古河市兵衛(ふるかわいちべえ)
古河市兵衛(ふるかわいちべえ) 天保3年3月16日〜明治36年4月5日(1832〜1903)
京都生まれ。実業家。古川財閥創始者。父は醸造業。幼少時より丁稚奉公や行商に従事したのち、小野組にはいり生糸貿易に手腕をふるう。明治7年(1874)の小野組破産後は独立、8年(1875)東京に古河本店を開設し、渋沢栄一らの資金援助で銅山を中心とした鉱山経営を行った。足尾・草蔵・院内・阿仁・久根などの多くの鉱山を経営し鉱山王と称され、のちの古河財閥の基礎を築いた。しかし、足尾銅山の急激な発展は晩年鉱毒事件として問題化した。
(※)国立国会図書館より
1832年(天保3年) 京都の岡崎に生まれる。幼名を木村巳之助といった。
1849(嘉永2年) 17歳で親戚を頼り盛岡に向かう。18歳になると名を幸助と改め南部藩の為替御用掛鴻池伊助店に勤めたが倒産。
1857(安政4年) 叔父の口利きで古河太郎左衛門の養子となる。小野組へ。
1874(明治7年) 政府は為替政策を変更し、そのあおりで小野組は倒産。
1875(明治8年) 小野組が所有していた新潟県の草倉銅山の払い下げを受け、最初の鉱山経営に踏み切った。
1877(明治10年) 栃木県の足尾銅山の買収に成功した。
1881(明治14年) 大鉱脈を発見。
1884(明治15年) 再び大鉱脈を発見。足尾銅山は日本の産銅量の約半分を産出。古河の事業を拡大させる。
東京の本所に本所溶銅所を開設した。
1884(明治15年) 本所溶銅所の精銅高は日本の産銅の約3分の1に達し、日本を代表する精銅所の地位を確立した。
1890(明治21年) 欧米の最新技術を導入して足尾銅山にわが国最初の水力発電所を建設し、坑内外の電化を図った。
渡良瀬川沿岸に鉱毒が出始めた。政府は鉱毒除外予防工事命令を発した。古河市兵衛はその実行に事業の命運をかけて取り組んだ。
1903(明治34年) 72歳で永眠。経営は二代目当主古河潤吉の手に移っていった。

古河グループは、戦前は三井、三菱、住友、安田らにつぐ勢力を誇った財閥であるが、現在も「古河山水会」という企業グループを結成している。

そこには古河機械金属、富士通、日本軽金属、古河電気工業など有名企業が名をつらねる。

この古河財閥を創業したのが、明治になると日本の鉱山王といわれた古河市兵衛である。

古河財閥の創業者、古河市兵衛は天保3年(1832年)3月16日に京都で生まれた。 幼名は木村巳之助と言う。木村家は代々の造り酒屋で庄屋も務めていしたが、この時期は経営不振に陥っており、また古河市兵衛の生母は古河市兵衛が幼い頃 に亡くなっている。

育ての母との仲はあまりうまく行かず、古河市兵衛は早い時期に家を 出ることを望み、9歳の頃からあちこちに丁稚奉公に出て商売というものを身に着けるようになる。

17歳になると、叔父のいる盛岡に赴いて南部藩の御用商人・ 鴻池伊助店に勤めるも倒産してしまった。だがそこで京都小野組の番頭であった古河太郎左衛門にその才能をみこまれて養子に迎えられ、古河市兵衛と名前を改める。

古河市兵衛はこの小野組で働き始め、生糸買付方をまかされて大きな収益をあげたのだった。

明治時代に入ると鉱山業にも進出。そして、小野組は明治新政府の為替方にも任命された。
だが、政府資金の運用に失敗しトラブル小野組は破綻した。

この時、古河市兵衛は第一国立銀行の責任者であった渋沢栄一と知り合っている。

古河市兵衛はまたも主家を失うこととなった。そして無一文となった古河市兵衛は独立して事業経営に乗り出すことを決意する。

小野組の倒産による清算で、自分の金をも吐き出した古河市兵衛はこの時43歳。古河市兵衛は商売の才はあったが、学問はてんでダメで、読み書きすらできなかったという。
そして、生糸と鉱山のことしかわからない古河市兵衛は、鉱山の仕事に全てを賭けることにしたのだ。

古河市兵衛は渋沢栄一の支援で、小野組糸店が所有していた新潟県の草倉銅山を翌年自分で 買い取って鉱山経営に乗り出した。

その後、収益が上がってきたところで 志賀直道(小説家・志賀直哉の父)と共同出資で足尾銅山を買い取った。

当時の足尾銅山は江戸時代前期の古い銅山で、採掘され尽されたとみなされていたのだが、陸奥宗光(後に 外務大臣)らの資金援助も受けて探掘を続けたところ、新鉱脈を次々と発見することができた。

更には近代技術を積極的に導入し、足尾銅山を完全に復活させた。全盛期には足尾銅山だけで日本の産銅量の3分の1を産出したという。

また、古河市兵衛は次々と多数の銅山を開発し、明治20年頃には銅産出量が日本全体の銅生産の4割を占めるほどになった。

いつしか古河市兵衛は「日本の鉱山王」と呼ばれるようになった。

当時、日本の銅はほとんどが海外に輸出されていたが、産出された粗銅は品質が不安定で、海外での評価はまだまだ低かった。

古河市兵衛はその解決のために精銅事業への進出を決意する。
1884年、古河市兵衛はその掘り出した銅を精錬するため東京に1884年本所鎔銅所を設立。

そこか ら生まれる銅加工品を輸出することで海外市場を開拓。精銅品質を向上させることで輸出市場を開拓し、銅加工品の生産によって国内市場を広げていった。銅を中心とする多角経営への第一歩である。

操業2年目の1885年には、本所溶銅所の精銅高は日本の産銅の約3分の1に達し、日本を代表する精銅所の地位を確立した。

この銅を使った電線は明治後半、日本全体に電力配給のネットを広げていくのに大きく貢献することになる。

1890年に、古河市兵衛は、欧米の最新技術を導入して足尾銅山にわが国最初の水力発電所を建設し、坑内外の電化を図った。

そんな順調な最中、古河市兵衛の前に鉱毒問題という予期せぬトラブルが立ちはだかった。
1890年、足尾銅山の脇を流れる渡良瀬川が氾濫した。この時の洪水から、付近は数年にわたり凶作となった。その後、この凶作の原因は足尾銅山の鉱毒にあると判明した。

そして、付近住民は足尾銅山の操業停止を訴えたのだ。この問題は大きな社会問題となり長期化した。このとき古河市兵衛58歳。

政府は鉱毒除外予防工事命令を発し、古河市兵衛はその実行に事業の命運をかけて取り組んだ。

第3回予防工事は、使役労働者58万3,589人、支払い賃金47万円、資材42万円など、総額104万4,000円余りをかけ、180日間に及ぶ大工事となった。だが古河市兵衛は世論による弾劾の中で胃潰瘍に倒れた。

大工事を終え、1903年4月、古河市兵衛は72歳で没した。経営は二代目当主古河潤吉の手に移っていった。

その後の事業は後継者たちにより、近代的な合理化路線に変更されていったのだった。

古河市兵衛が作った銅山の経営会社は後に古河鉱業となり、現在は古河機械金属と改名 されている。

また、本所鎔銅所は横浜の発明家・山田与七が設立 した山田電線製造所と合併して古河電工になった。


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