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日本生命創業者
弘世助三郎(ひろせすけさぶろう)は、天保14年(1843年)現在の滋賀県彦根市の旧家・川添益二郎の次男として生まれ、4歳で彦根の豪商で彦根藩の掛屋の家である叔父の弘世助市の養子となる。 そこへ養子に入った弘世助三郎は、養父に連れられて、12歳ごろからあちこち商いに出かけている。大人たちに混じって、商売のイロハや駆け引きなどを学んだ。 弘世家は嵯峨源氏の末裔を称し、江戸時代に彦根城下に移り住み、商人として成功し、万延元年(1860年)の「桜田門外の変」以降、彦根藩の御用金役を務めた。 弘世助三郎は、明治に入るころには滋賀県の金融、物流事業を指導する立場となっていた。 明治3年に「融通会社」を設立。 これは徳川時代に使われた藩札を明治の太政官札に交換する会社で、いわば金融機関の走りであった。 この仕事を通じて弘世助三郎は、近代的な金融機関の必要性を痛感し、当時、各地にできはじめていた「国立銀行」設立に奔走する。 この活躍は目覚しく、「大津第六十四国立銀行」、「彦根第百三十三銀行」、さらに大阪の「日本共同銀行」、「日本中立銀行」、滋賀の「近江貯蓄銀行」などの創立に参画した。 1879年(明治12年)4月、第百三十三国立銀行は第六十四国立銀行から分離・独立する形で、資本金10万円で滋賀県彦根市銀座町に開業される。 設立時の頭取は彦根藩士族伊関寛治、取締役兼支配人には後に日本生命を創業する弘世助三郎。その後、弘世助三郎が頭取を務める。 第百三十三国立銀行は、後に山口銀行、鴻池銀行と合併して三和銀行(昭和8年)となり、三和銀行設立時、弘世助三郎は非常勤取締役になっている。 日本生命が三和銀行の筆頭株主であったのはこうした歴史があるためだ。 いずれにしろ弘世助三郎はあらゆる事業の先駆者となった。 その中でも先進的な事業となったのが、鉄道と生命保険である。 鉄道については、明治20年に関西鉄道、大阪鉄道を創立して発起人となっている。 また弘世助三郎は、1886年(明治19年)に滋賀県会議員に当選。 日本に保険制度を最初に紹介したのは福沢諭吉と渋沢栄一だが、ちょうどそのころ、東京では日本初の明治生命(明治14年設立)が創立され、明治21年には帝国生命(朝日生命の前身)が事業化に成功していた。 その影響を受けて、関西で最初に誕生したのが日本生命。 明治22年7月、弘世助三郎47歳の時である。 このとき弘世助三郎は、先の岡橋や鴻池らの大阪財界人、また当時滋賀県知事であった中井弘の助力を得て「自分は銀行業務で多忙だから、代理で実務を担当する人物はいないか」と依頼し、当時滋賀県警察部長だった片岡直温(のちの 若槻内閣の蔵相)なる人物を得る。 いわば弘世助三郎は経営の表面には立たず、実務を片岡直温にまかせた。 その一方で初代社長には、当時全国きっての大富豪だった鴻池家第十一代当主・鴻池善右衛門を推挙した。 この時代生命保険は「人の命で金儲けをするのか」といわれたぐらいで、社会から認知されにくい事業だった。 そのため「鴻池家の当主が社長をしている」ということで信用を勝ち得た。 こうして日本生命はスタートし設立10年目には早くも日本一の契約高を誇る生命保険会社へと発展していった。 そして昭和3年。 日本生命三代目社長に弘世助三郎の嫡男・助太郎が就任した。 「近江商人」という呼ばれ方をする事業家は多い。伊藤忠兵衛(伊藤忠)、塚本幸一(ワコール)、 堤康次郎(西武)などが知られているが、日本一の生命保険会社を設立した弘世助三郎(ひろせすけさぶろう)も典型的な近江商人である。 →弘世助三郎のページTOPへ |
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