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川崎重工創業者
川崎正蔵(かわさきしょうぞう)は、鹿児島の貧しい呉服商人の家に生まれた。長崎に出て貿易商としての修行を積み、27歳の時に大阪で貿易商の店を構える。 しかし、暴風雨により船が積荷ごと沈没しあえなく倒産してしまった。 その後、薩摩藩士が設立した琉球糖を扱う会社へ勤めにでて、大蔵省から委嘱されて琉球糖や琉球航路を開設、砂糖の調査を行った。そして日本国郵便蒸気汽船会社のふく頭取に就任し、琉球航路を開設し、砂糖の内地輸送を成功させた。 川崎正蔵は、この間にも何度も海難事故にあう。乗っていた琉球航路の船が暴風雨にみまわれ船は遭難し、川崎正蔵は死を覚悟したという。 だが、この時に川崎正蔵が乗っていた船は旧式の日本船ではなく丈夫な西洋船だったために沈没することはなく、命は助かった。 このような経験から、川崎正蔵は「丈夫な西洋船を作りたい」と思うようになり、日本船に比べて船内スペースが広く、速度も速く、安定性のある西洋船への信頼を深め、近代的造船業に強い関心を抱いた。 しかし造船業をはじめようと思っても川崎正蔵には資金がなかった。そこで、政府に金を借りようと奉願書を提出した。神戸と東京に造船所を設立して西洋船を年間20隻建造するという計画でそれに要する資金は莫大だった。 だが、残念なことに政府からはほとんど資金の援助はされなかった。 そんなとき、薩摩出身の大蔵官僚の松方正義が民間出資を呼びかけてくれた。これにより資金はとりあえず集まり、1878年に東京築地の官有地を借り受けて川崎築地造船所が設立された。 川崎正蔵が41歳のときである。 造船所はできたが、当時の海運は日本船が主流だったため、西洋船はあまり受け入れてもらえないことも多く、需要はあまりなかった。 従業員に払う給料すら事欠くという状況で経営は火の車だったが、川崎正蔵のビジネスの才により海運業や砂糖販売などの造船業以外の事業はなんとか好調であったために、造船事業も持ちこたえることができた。 川崎正蔵は、長男を幼い頃に亡くしているのだが、1885年には次男と三男を相次いで亡くすという悲運にみまわれた。さらにこの時期に、海運業で所有船3隻を海難事故で失っている。 幾度と無く不幸が続いたが、ようやく川崎正蔵のもとにチャンスが訪れた。1886年、官営の兵庫造船所が民間へ払い下げられることになったのだ。 官営(国営)造船所は立地条件もよく設備も整っていたため、多くの希望者が殺到した。川崎正蔵もその一人であった。希望者は資金力のある者が多かったため、川崎正蔵にとっては不利な状況であった。 だが、その造船への情熱が評価されてか、官営の兵庫造船所は川崎正蔵のもとに払い下げられることが決まった。これにより、川崎正蔵は大規模な造船所と最新の技術を手に入れた。 そして政府から大型船の注文を受けた。 また、1994年の日清戦争では海軍から大量の軍用船舶の注文を受け、川崎造船所は好調さを増していった。 川崎正蔵の死後、川崎造船所は発展し「川崎重工」となる。 →川崎正蔵のページTOPへ |
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