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東武グループ創業者
根津嘉一郎(ねづかいちろう)は、甲斐東山梨(山梨県)に生まれ、幼名を栄次朗という。 生家は「油屋」の屋号で看板商品の油のほか雑穀などを扱う比較的裕福な商家であり、父嘉市郎は村役人を務めるなど、村では人望家として知られた。根津嘉一郎は次男坊だったが、兄一秀が病弱であったため、嘉市郎は根津嘉一郎に期待をかけ育てた。 少年時代の根津嘉一郎は、勉強ができ、寺子屋の師匠が留守の時にはその代理を務めたという。 根津嘉一郎は江戸へ出て勉強したいと、父に申し出た。しかし父は、根津嘉一郎を「油屋」の跡取りとして期待していため、その願いは許されず、商売に励むしかなかった。 それでもあきらめきれない根津嘉一郎は、出奔する格好で東京に出てた。 軍人として大成することを夢み、陸軍士官学校への入学を目指すが、士官学校には年齢制限があったため断念。やむなく上野池之端の恩知塾に入る。この恩知塾で2年ほど学んだ。 その後、全国規模で自由民権運動がわき起こり、政党政治の波は根津嘉一郎の故郷にも押し寄せた。根津嘉一郎は地方政治に関心を持つようになった。 その後、31歳で県会議員に選ばれ一期を勤め、今度は村長に立候補して当選を果たす。 村長時代の事績としては、笛吹川氾濫対策で氾濫による洪水の危機から村を救い称賛されている。 実業界への関わりは、当時山梨一の金持と言われた若尾逸平との出会いによる。 若尾逸平は同郷の先輩で、江戸での奉公や郷里での行商など辛苦を重ね、横浜開港を機に生糸や綿製品など貿易を手がけ、とくに貨幣乱発による価格下落に着目、生糸を買い占め巨利を博し、大地主となった人物である。その若尾逸平が野望に燃える根津嘉一郎のことを知り、株を薦めたのだ。 根津嘉一郎は、生糸取引で成功した若尾逸平の「金儲けは株に限る。株は運と気合だ。」の一言により、株の世界に足を踏み出す。さらに、買うべき株は「乗り物」と「灯り」だとヒントをもらった。 乗り物とは「電気軌道」のことであり、「灯り」とは電力のことだ。 投資をするなら、この二つがねらい目だと若尾逸平は教えたのである。こうして根津嘉一郎は株式の売買を始め、まず買い始めたのが東京電灯株だった。 おりから東京電灯は漏電騒ぎと内紛で株価は低迷していた。その間にも根津嘉一郎は若尾逸平に薦められた東京電灯株を少しずつ買い占めていった。 だが手持ち資金は限られ、しかも株は初めての経験である。多くの借金を抱え苦境に立たされたこともあった。 しかし、これを乗り切り、根津嘉一郎は資産を築いていった。根津嘉一郎は若尾逸平と連合を組み、東京電灯株を、徐々に買い占めていった。若尾・根津連合(甲州財閥連合)は、明治29年についに東京電灯の経営権を手にいれた。 経営陣を刷新し、若尾逸平の番頭格で、当時第十国立銀行頭取を務めていた佐竹作太郎が社長に就任した。佐竹作太郎は、以後40年近く社長を務めた。 一方、東京電灯の買い占めで参謀格として活躍した根津嘉一郎は監査役に就任し、ここで初めて電力業界への足がかりを得る。しかし、甲州財閥に対する風当たりは強かった。根津嘉一郎たちの行動が「乗っ取り」とみなされたためだ。M&A、企業買収などの 荒々しいやり方は世間からは好まれなかったのである。 事業に目覚めた根津嘉一郎は若尾逸平の教えを忠実に守っていった。 根津嘉一郎が自ら「渾身の力を尽くした」という東武鉄道の再建は、東武鉄道の経営が悪化した1904年頃から始まった。この頃、根津嘉一郎も東武鉄道の株を相当量取得していたが、その配当は徐々に減り、そして最後には無配当になった。 根津嘉一郎は東京電灯での経営再建の手腕を見込まれて、当時の東武鉄道の経営陣から再建を以来され社長に就任した。根津嘉一郎は、東京電灯で培った経営再建のノウハウを活かし、経費削減とコストの低減に務めた。大規模なリストラを行って人員の整理をし、事務所関係費の削減を徹底的に行ったのだ。 また、遅滞していた取引先への支払いを優先させ、信用醸成を図った。 そして根津嘉一郎は、第一次大戦の影響で着工が遅れていた「日光線」に注目。都心から日光、鬼怒川方面まで路線を拡張すれば相当な利益が見込まれると判断したのだ。 しかし、地元日光の人たちは反対であった。日帰りされたのでは旅館業が閑古鳥がなくと反対したのだ。 反対派の急先鋒は東照宮宮司の額賀大直だった。 根津嘉一郎は、その額賀率いる反対派を相手に「あなた方は日光にくる人数を同じに考えておられる、私が鉄道を引く以上は2倍、3倍のお客を持ってきてみせます」と説いた。 しかし、社内からも反対の声が上がった。理由は「建設資金の調達」問題だった。その反対論を制して、着工にこぎ着けることができたのは日露戦争後の株式ブームで得た潤沢の資金を持っていたからだ。 はじめ蒸気機関車だった東武鉄道は大正12年に浅草−西新井間を電化、こうして日光線の基礎を作った。 やがて浅草−日光線が開通をしてみると、これまで年間30万人余りだった日光を訪れる参拝客は100万に増加したのであった。 ボロ会社と言われた東武鉄道はこれにより一躍優良企業となった。 明治から大正にかけて、鉄道会社が乱立していた。 明治15年、都電の前身である「東京鉄道」が、新橋−日本橋間に鉄道馬車を開通した。この鉄道馬車が電車となるのは先の明治36年のことだ。 これより1ヶ月遅れで「東京市街鉄道」が有楽町−神田橋間に開通し、同じ年には郵船会社系の「東京電気鉄道」が外壕線を申請するなど、首都には三つの鉄道会社が乱立していた。 これでは二重投資になる。これを統合すれば経費節減になり、乗客の利便にかなうと考えた根津嘉一郎はそれらの統合に動き、ときの東京府知事や財界の大物、渋沢栄一らに働きかけ、ついに三社統合を実現した。 そして明治38年には、新たに発足した東京鉄道の取締役に就任した。以後、根津嘉一郎が経営に関与した鉄道会社は、東武鉄道以外にも高野登山鉄道(現:南海電鉄)など全国で24社をかぞえるまでになった。 このような業績を称えて、世間は根津嘉一郎を「日本の鉄道王」と言ったのだった。 しかし、すべての事業が順調であったわけではない。苦戦を強いられた事業もあった。 根津嘉一郎が経営を手がけた企業は、日本第一麦酒(現:アサヒビール)、富国徴兵保険(現:富国生命保険)、日清製粉などがある。 根津嘉一郎は自らを「生涯、他人に使われたことがない」と話したことがある。多くの実業家は丁稚からたたき上げ、功労を積み、出世街道を登りつめたが、根津嘉一郎は生涯一匹狼を通し、人の下僚になり、使われた経験や人の恩顧を被った経験を持たなかった。 →根津嘉一郎のページTOPへ |
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