大倉財閥創業者
大倉喜八郎(おおくら・きはちろう)

鶴彦翁回顧録 :
生誕百年祭記念
(国立国会図書館) |
天保8年9月24日〜昭和3年4月22日(1837〜1928)
新潟生まれ。実業家、大倉財閥の創設者。父は新発田藩の大名主。18歳で上京、乾物屋を営んだ後、慶応元年(1865)大倉屋銃砲店を開業、戊辰戦争に際し官軍御用をつとめて巨利を得る。明治6年(1873)大倉組商会を設立し、貿易業に着手。7年(1874)の台湾出兵や日清・日露戦争で軍の用達商として活躍した。朝鮮・中国における投資にも積極的で、帝国ホテル等も含め内外に多くの事業を展開し、大倉財閥を築いた。また、教育にも関心をもち、明治33年(1900)大倉商業学校(現東京経済大学)を創立。大正4年(1915)男爵となる。
(※)国立国会図書館より |
| 1837年(天保8年) |
越後国新発田(現・新潟県新発田市)に名主大倉千之助の3男として生まれる |
| 1854年(嘉永4年) |
江戸の鰹節店に奉公。 |
| 1857年(安政4年) |
独立し、乾物店を創業する。 |
| 1867年(慶応3年) |
江戸・神田和泉橋通に大倉銃砲店を開業。 |
1868年-1869年
(慶応4年-明治元年) |
戊辰戦争で軍需品の供給を行い富を築く。 |
| 1871年(明治4年) |
日本初の洋服仕立て店を開業 |
| 1872年(明治5年) |
欧米視察旅行。欧州滞在中に岩倉使節団と交流。 |
| 1873年(明治6年) |
日本人による初の貿易商社大倉組商会を東京銀座に設立。 |
| 1874年(明治7年) |
大倉商会ロンドン支店開設。台湾征討で政府から物資調達の仕事を請け負う |
| 1877年(明治10年) |
西南戦争で陸軍御用に |
| 1878年(明治11年) |
渋沢栄一らと東京商法会議所を設置、宮城集冶監を受注 |
| 1883年(明治16年) |
鹿鳴館を受注・建設 |
| 1886年(明治19年) |
東京電灯会社を創設 |
| 1887年(明治20年) |
藤田組と日本土木会社を設立。株式会社帝国ホテルを創設 |
| 1893年(明治26年) |
日本土木会社を引継ぎ、大倉土木組(現・大成建設)を設立。 |
1894年-1895年
(明治27年-明治28年) |
日清戦争、西南戦争、日清戦争において軍御用達として食料、兵器等の納入をおこなう。 |
| 1898年(明治31年) |
東京に大倉商業学校を開校 |
| 1900年(明治33年) |
私財50万円を投じて大倉商業学校(現・東京経済大学)設立。 |
| 1906年(明治39年) |
ビール3社を合併し、大日本麦酒を創設 |
| 1907年(明治40年) |
帝国劇場株式会社、東海紙料を創設 |
| 1908年(明治41年) |
日本化学工業を設立 |
| 1910年(明治43年) |
南満州に本渓湖煤鉄公司を設立 |
| 1915年(大正4年) |
山陽製鉄所を創設 |
| 1917年(大正6年) |
邸宅内に日本初の私立美術館、財団法人大倉集古館開設。 |
| 1918年(大正7年) |
日清製油を設立 |
| 1920年(大正9年) |
日本無線電信電話を創設 |
| 1926年(昭和元年) |
南アルプス赤石岳に登山。 |
| 1927年(昭和2年) |
宮内省に隠居届け。家督を長男喜七郎に譲る |
| 1928年(昭和3年) |
4月22日 大腸がんのため永眠。享年90歳。 |
大倉喜八郎(おおくらきはちろう)は越後・新発田の苗字帯刀を許された庄屋の三男として生まれ、幼少のうちから「四書五経」の教育をうけるなど恵まれた環境で育った。
17歳で江戸に出た大倉喜八郎は、麻布の鰹節屋で3年間働いた後に「大倉屋」という乾物屋を開業する。
あるとき大倉喜八郎は、横浜に出向いた際に、さかんに鉄砲が荷揚げされている光景を見て「この先戦争がおこる。そのときは鉄砲が売れるだろう」とひらめいたという。
彼はすぐに大倉屋(乾物屋)をたたみ、今度は鉄砲屋に勤めだした。
その後独立し、大倉屋鉄砲店を立ち上げる。しかし鉄砲を仕入れる資金がなかったので、受注発注方式をとり、注文を受けてから仕入れをした。
武器商人となった大蔵喜八郎は、世間からは金儲けのためには政府側にも旧幕府側にも武器を売る「死の商人」と誹謗を受けるようになり、後々まで「死の商人」というレッテルはついてまわった。
その後、戊辰戦争では軍需品の供給を行い巨額の富を築く。
明治維新後は、政府の御用商人となり日本人による初の貿易商社、大倉商会を設立して貿易業に着手した。
台湾征討、西南戦争、日清、日露戦争でも巨額の富を築き、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの会社からなる大蔵財閥を形成。
当時、大倉喜八郎は世間では「死の商人」と批難されたが、さばざまな慈善事業に多額の寄付をしている。
東京、大阪、日本領だった朝鮮、に私財を投じて商業学校を設立。東京の大倉商業学校は現在の東京経済大学として発展した。
また、美術品や骨董品の収集にも熱を注いでおりそれらの古美術は大倉集古館として、現在でも大倉喜八郎の長男、大倉喜七郎が建てたホテルオークラの前で一般公開されている。
戦後の財閥解体により大倉財閥は解散してしまうものの、その後継事業は大成建設、帝国ホテル、サッポロビール、日清製油、ホテルオークラなど現在も残っている。
大倉財閥創業者 大倉喜八郎(きはちろう)の名言・言葉
「今日の経験を明日もちいない者は、大成功はのぞまれぬ」
「今日はよく働いたと夕方になって考えることほど、私にとって大きな楽しみはなかった」
「人は命がけでかかればできない事はない。商売も同じである」
「誰も引き受けないところに商機はある」
「楽隠居の考えを止め、勇気をおこし、家のため、国のため努力するこそ人間の本文なり」
「渡りこし 浮世の橋のあと見れば いのちにかけて あやふかりけり」
「商人にとっては儲けこそ命である」
「天物を暴殄するな」
「信用を重んずべし、信用なき人は首なき人と同様なりと知るべし」
「何事も魂を籠めて誠心誠意を以て働け」
「遊ぶも働くも月日は流る、奮闘に興味を持つ」
「他人が十時間働くなら、自分は十二時間働け、精神一倒何事不成の心持を以てすれば、成功必ず疑なし」
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