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第一国立銀行、株式会社、実業家
渋沢栄一は1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれた。幼名は市三郎という。 渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける大農家だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。 渋沢栄一は家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問 の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に四書五経や『日本外史』、「論語」などを学ぶ。18歳の時(1858年)には惇忠の妹千代と結婚、名を栄一郎と改める。 文久元年(1861年)に江戸に出て海保漁村の門下生となる。また千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に出入りし、勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から文久3年(1863年)に尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城を乗っ取り、横浜を焼き討ちにして、幕府を倒す計画をたてる。 しかし、惇忠の弟長七郎の説得により中止し、京都へ向かった。 渋沢栄一は、京都で一橋家家臣の平岡円四郎の推薦により一橋慶喜(後の徳川慶喜)に仕えることになる。郷里を離れた渋沢栄一は、一橋家の家政の改善などに実力を発揮し、次第に認められていった。仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わった。 その後、渋沢栄一は主君の慶喜が将軍となったのに伴い、幕臣となった。 そして27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟・後の水戸藩主、徳川昭武に随行しフランスのパリ万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通ずることとなった。 パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、徳川昭武はパリに留学するものの、大政奉還に伴い、慶応3年(1867年)に新政府から帰国を命じられ、12月に帰国した 渋沢栄一は帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、静岡藩に出仕することを命じられる。しかし、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、仕官を断り慶応4年(1868年)1月に静岡にて「商法会所」を設立するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省して新しい国づくりに深く関わる。 渋沢栄一は大蔵官僚として民部省改正掛(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。 しかし、予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年(1873年)に井上馨と共に退官した。 渋沢栄一は退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(現:みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。 この第一国立銀行は、株式会社方式で発足した銀行で、日本初の株式会社である。当時の豪商である三井家と小野家がそれぞれ100万円を出資し、残りを一般公募という形でスタートしたものだった。ところが、小野家が経営不振に陥り、出資金と債務を相殺することになり、三井家が株式の過半数を握ることになった。 大株主になった三井は経営権を譲るように渋沢栄一に圧力をかけてきた。株式会社である以上、もっともな要求ではあったが、渋沢栄一は国策銀行である第一国立銀行を三井の所有物にしたのでは所期の目的は果たせないと考え抵抗した。 政府内には三井に同調する動きもあり、渋沢栄一は孤立したが、屈せずに抵抗した。 渋沢栄一は当時の大蔵卿をかきくどき、銀行法の改正を政府に迫り、三井からの独立を守った。 この件により、日本に株式会社制度を根付かせその後の殖産興業の方向付けが確立することができたといわれる。 渋沢栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされている。 また、渋沢栄一は「外人土地所有禁止法」(1912年) に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、成功はしなかったがこれが現在の時事通信社と共同通信社の起源となった。 渋沢栄一はが三井・岩崎・安田・住友・古河・大倉などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。 渋沢栄一は「私利を追わず公益を図る」考えを生涯に渡って貫き通したのだ。 財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設したため、これを中心とする企業群を「渋沢財閥」と呼ぶが、これはあくまでも死後の財産争いを防止するために便宜的に持株会社化したものである。 渋沢栄一は日本に資本主義を持ち込み、株式会社システムを確立させたため「日本資本主義の父」と呼ばれている。また、「利は義に反す」という江戸時代以来の日本の伝統的な教義を、論破し、利益や富そのものは不道徳ではなく、道義と経済は一致するものであると確信を持っていた。 また、正義とか寛容とか礼節といった「道義」の意識を持って事業を営み、その結果として富が蓄積され、国民の衣食住が満たされるということは、国家が仁政を行ううえに必要な条件であること説いた。 渋沢栄一は、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら1931(昭和6)年11月11日、91歳の生涯を閉じた。 →渋沢栄一のページTOPへ |
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