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味の素創業者
鈴木三郎助(すずきさぶろうすけ)は8歳の時に父親をなくしている、初代鈴木三郎助は35歳の若さで世を去った。 鈴木三郎助は15歳で食料品問屋に丁稚奉公に出されるが、米相場の世界にのめりこみ実家から資金を工面してもらい、東京の蛎殻町へ出かけ、投機に熱中するありさまだった。 生活が苦しい実家では、鈴木三郎助の母、鈴木ナカが生活の足しに避暑客のために自宅の間貸しをはじめた。 その客のひとりに大日本製薬会社の技師である村田春齢がいた。村田は海岸に漂流している「かじめ」に注目し、ナカにこれを焼いてヨードを作ることを勧めた。ナカはこの勧めに従い、嫁のテルとともにヨード製造を開始したが、 やがて投機に失敗した鈴木三郎助は、ナカに実家のある神奈川県葉山に連れる。そこで早朝から日暮れまで母や妻が真っ黒になって海藻を取り集めている働く姿に心を打たれ。ヨードを作る仕事を手伝うようになった。 10年余りたった頃、東京帝国大学教授の池田菊苗博士は、湯豆腐のダシ用昆布のうまみの正体を探ろうと思い立ちその正体がグルタミン酸であることを突き止め、その製造法を発明して特許を出願していた。 そして1908年2月、昆布の研究をしている博士がいることを伝え聞いた鈴木三郎助は、紹介状を手にして池田菊苗博士の研究室を訪れた。しかし、池田菊苗博士の研究は昆布とは言っても、ヨードとは関係のないうまみについてであったため鈴木三郎助はさして得るものもなく早々に辞去した。 池田菊苗博士は、この発明品「グルタミン酸ナトリウム」は人々の栄養不良を救済し得る廉価なる新調味料となると確信していた。そこで、これを世に出すべく中央実業界へ事業化を働きかけたが、当時は誰からも相手にされない。そのとき頭をよぎったのが、その年の春に訪ねてきた鈴木三郎助のことである。池田菊苗博士は、1908年7月25日、特許が許可されたのを契機に、8月に鈴木三郎助に「グルタミン酸ナトリウム」の事業化、製品化を依頼した。 博士の熱心な勧めに心打たれ商品化を決意した鈴木三郎助だったが、内心はこの新調味料が誰からも嗜好され家庭の必需品になり得るかとの不安を抱えていた。 しかし家族の理解を求め、早速、特許の共有化を池田菊苗博士に申し入れ、利益が生じた際にはその一部を提供するとの口約束までとりつけた。 旨味成分、「グルタミン酸ナトリウム」の製品化は世界で始めての試みだった。それでも4ヶ月経ち、試行錯誤の結果ようやく製品化への目処がついた。 この新調味料は、鈴木三郎助の息子三郎の提案により、全員一致で「味の素」と命名された。当時、ヨード事業は順調に推移しており、この商品化は当初、鈴木三郎助の個人事業「鈴木商店」として始められた。 発売に際して鈴木三郎助は、東京衛生試験所に安全性試験を依頼、「味の素」が衛生上無害であるとのお墨付きを得た。こうして新うま味調味料「味の素」は、1908年12月薬屋店頭にて試験販売開始し、翌1909年5月20日には一般販売が開始された。 鈴木三郎助の息子である弱冠19歳の三郎は、宣伝、販売面を全面的に任された。 三郎の発案で『東京朝日新聞』に掲載するなど、その他、折込チラシや京橋に開設された味の素本舗の店頭ディスプレイや屋上イルミネーションなど、三郎は次々に新しいアイデアを実現していった。 全国でチンドン屋を使って、ノボリを押したて、口上を述べながら売りあるくという方法もとった。 鈴木三郎助としては、弟や息子をも加えた不退転の事業となった。 しかし、本業のヨード業が好調だったとはいえ、「味の素」商品化に投入した額は莫大であった。 最初の10年間は赤字続きだった「味の素」も大正中期からは、未だ貴重品とはいえ、高級料理店や宮内省御用品とされるなど、ようやく人々に受け入れられるところとなった。 収支が合うようになったのは発売開始から16年が経ったころだった。 経営はヨード以来の製薬事業から「味の素」の販売へと展開され、問屋組織「味の素会」の結成や流通経路を把握するための開函券制度をはじめ、料理講習会なども企画され、「味の素」は瞬く間に全国に普及した。 →鈴木三郎助のページTOPへ |
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