山葉寅楠(やまはとらくす)

山葉寅楠(やまはとらくす)ヤマハの創業者

ヤマハ創業者

山葉寅楠(やまは・とらくす)
山葉寅楠(やまはとらくす) ヤマハの創業者 嘉永4年4月20日〜大正5年8月8日。(1851〜1916)
和歌山県生まれ。ヤマハ創業者。紀州徳川藩士で、天文係をしていた山葉孝之助の三男として江戸の藩邸で生まれる。長崎で時計づくりを、大阪で医療器械を学び、医療器械の修理工として浜松に移る。そこで壊れたオルガンの修理をしたのをきっかけにオルガン製作を決意し、1887(明治20)年11月日本初の本格的オルガン製作に成功、1888(明治21)年3月山葉風琴製造所を創業、1889(明治22)年3月合資会社山葉風琴製造所設立。1897(明治30)年10月改組して日本楽器製造株式会社(現ヤマハ)を設立し、日本の楽器王と呼ばれた。戦後、日本楽器からオートバイ部門のヤマハ発動機が誕生。
1851(嘉永4年) 山葉孝之助の三男として生まれる
1871(明治4年)〜 20歳で大阪に出て時計や医療器具の修理を学ぶ。
1886(明治19年)〜 浜松の県立病院で医療機器の修理工となる。オルガンの修理。
1887(明治20年) 日本初の本格的オルガン製作に成功、
1889(明治22年) 「山葉風琴製造所」設立。
1897(明治30年) 日本楽器製造株式会社(現ヤマハ)を設立
1899(明治32年) ピアノ製造法研究のため単身アメリカに渡り、ピアノ工場をまわる。
1900(明治33年) アップライトピアノの生産を開始。
1902(明治35年) グランドピアノを完成させる。
1904(明治37年) セントルイス万国博覧会でピアノとオルガンに名誉大牌賞を受賞。
1916(大正5年) 8月8日逝去、享年64歳。

山葉寅楠(やまはとらくす)は、紀州徳川藩で天文暦数や土地測量・土木設計などの天文方を勤めていた藩士の父、孝之助の三男として生まれた。

明治維新で家は没落し、山葉寅楠は二十歳のときに大阪に出た。そこで時計や医療器具の修理を学んだ。

技術者として各地を転々とし、東京に出て一旗揚げようとしていたが、当時コレラの流行で仕事はなかなか見つからなかった。そんなとき、浜松の県立病院で修理工を捜していることを知人が知らせてくれたのでそこに就職することになった。

その頃、明治政府の意向で小学校に随意科目として唱歌科がもうけられた。
浜松の小学校でも唱歌のためのオルガンを輸入したのだが、すぐに故障してしまった。

ある日、浜松に住むことになった山葉寅楠のもとに、浜松尋常小学校からオルガンが故障したので修理して欲しいという依頼があった。

山葉寅楠は医療器械の修理工だったが、当時は楽器の修理工などいない時代だったので時計や医療器具修理のできる山葉寅楠なら直せるだろうということで依頼されたのだった。

山葉寅楠にとってオルガンなど見たこともない機械だったが、好奇心旺盛な山葉寅楠はすぐにその修理を引き受け、知人で腕の良い飾り職人だった河合喜三郎に手伝ってもらいなんとか修理を成功させた。

さらに山葉寅楠は自分でも作ってみようと、そのオルガンを分解して図面に描き、その構造を模写したという。

オルガンの値段を聞けば、外国製で45円もするという。
山葉寅楠は「自分なら3円でつくる。将来オルガンは全国の小学校に設置されるだろう。これを国産化できれば国益にもなる」と、オルガンをつくる決意をした。

しかし、材料の見当もつかず、音楽の知識も無い。そんな状態ではあったが、山葉寅楠は河合喜三郎と協力し、なんとか2ヶ月をかけてありあわせの材料でオルガンをつくってみせた。

だがそのオルガンは狂った音しかでなかったため、東京の音楽家に見てもらうことにした。
2人は天秤棒にオルガンをかついで運び、音楽取調所(現東京芸術大学)の教授に見せた。

教授たちはオルガンをつくったことに驚いたが、弾いてみると音程が狂っており、やはり楽器として使えるものではなかった。当時、西洋音楽を指導していた伊沢修二から「調律が不正解、音楽を学習していけ」と言われた。

そこで山葉寅楠は、音楽の基礎を学ばないと楽器製作はできないと悟り、伊沢の取り計らいもあってそこの聴講生となった。そして調律、音楽理論を1ヶ月学んでから浜松に帰った。

浜松に帰ると、河合喜三郎と協力して、すぐさま2台目のオルガンの製造にとりかかった。
途中、資金が底をついたのだが、河合の妻が親戚をかけまわって借金をして二人を助けた。
そして、ようやく正しく調律された2台目をつくりあげ、それを再び東京へ運んだ。

2台目のオルガンは教授たちに高く評価された。山葉寅楠はこの時のオルガンを国産第1号として、そのまま音楽取調所(現東京芸術大学)に寄付した。

このオルガン製造に成功したことが評判になり、次第にオルガン製造の注文も来るようになったので、「山葉風琴製造所」を設立して本格的なオルガンの製造を開始した。

注文第1号は、静岡県から5台が来た。その後も政府の方針によって唱歌が普及したため、オルガンの需要はうなぎ登りで事業は順調にいき、わずか1年後には従業員は100名を超え、ロンドンに輸出するようになっていた。

1889年、東京や大阪の楽器商社の協力もあり、「日本楽器製造株式会社」となった。
この頃から、山葉寅楠はピアノの製造、国産化を目指すようになる。

そしてピアノ製造法の研究のため、伊沢修二の紹介により文部省嘱託(しょくたく)という身分でアメリカへ渡る。

アメリカに渡った山葉寅楠は、ピアノ工場の見学や部品の買い付けに没頭した。

帰国後は国産ピアノ第1号をつくるべく、会社の総力をあげてピアノの製造にとりかかる。

ピアノの部品の多くはアメリカで買い付けたものを使用したが、ピアノの生命といわれるアクション(響板)だけは日本人職人が開発したものを使用した。

この時の職人は、後に「河合楽器」を創業する河合小市でという人物で、明治30年わずか11歳で日本楽器製造に入社し、山葉寅楠にとても可愛がられていた。

そして山葉寅楠は明治33年(1900年)にはアップライトピアノ、明治35年にはグランドピアノの製造にも成功したこれらのピアノとオルガンは、アメリカのセントルイス万国博覧会で名誉大牌賞を受賞した。

オルガン、ピアノの量産化で山葉寅楠は「日本の楽器王」と呼ばれるようになる。
山葉寅楠の死後、「日本楽器製造株式会社」は「ヤマハ株式会社」となり世界一の楽器製造を誇る企業へと成長する。

また、戦後には日本楽器からオートバイ製造のヤマハ発動機が誕生した。


ヤマハ創業者 山葉寅楠(やまはとらくす)の名言・言葉

「男は男に惚れられなければ事業に成功できない」

「この程度のものなら、自分でも努力すれば作れる」


→山葉寅楠のページTOPへ
創業者たち
メニュー
創業者たちの偉人伝TOP

明治の創業者たち
岩崎弥太郎(三菱グループ)
大倉喜八朗(大倉財閥)

鈴木三郎助(味の素)

田中久重(東芝)

山葉寅楠(ヤマハ)

川崎正蔵(川崎重工)

福原有信(資生堂)
弘世助三郎(日本生命)

古河市兵衛(古河グループ)

浅野総一郎(浅野グループ)
根津嘉一郎(東武グループ)

渋沢栄一(国立第一銀行)
安田善次郎(安田財閥)

大正の創業者たち
金子直吉(鈴木商店)※経営者
御木本幸吉(ミキモト)
森永太一郎(森永製菓)
早川徳次(シャープ)
山本唯三郎(松昌洋行)
山下亀三郎(山下汽船)
服部金太郎(セイコー)
野村徳七(野村グループ)
小林一三(阪急東宝グループ)
久原房之介(日立製作所)

昭和と平成の創業者たち
本田宗一郎(本田技研工業)
松下幸之助(松下電器産業)
井深大(ソニー)
稲盛和夫(京セラ)
豊田喜一郎(トヨタ自動車)
鮎川義介(日産自動車)
中内功(ダイエー)
石橋正二郎(ブリヂストン)
出光佐三(出光興産)
鳥井信治郎(サントリー)
安藤百福(日清食品)
大塚正士(大塚製薬)
塚本幸一(ワコール)
正力松太郎(日本テレビ)
五島慶太(東急グループ)
堤康次郎(西武グループ)

江副浩正(リクルート)
孫正義(ソフトバンク)
三木谷浩史(楽天)

※リンクフリー

Copyright (C)創業者たちの偉人伝 All Rights Reserved