![]() |
安田財閥創業者
安田善次郎(やすだぜんじろう)は、富山藩の半農藩士という貧乏な末席士族の家に生まれた。 20歳で奉公人として江戸に出たが、そうの動機にはこんな話がある。 当時、富山藩は大阪の商人から金を借りていたという。ある日その大阪の商人が富山にやってきたときのこと、勘定奉行が大勢の下役人を使って、その商人を接待したのだ。 安田善次郎はそんな光景を目にし、「世の中は金だ!金持ちになりたい!」という思いにいたったのだという。 江戸に出たが資金のない安田善次郎は当初、玩具屋、海苔屋、と奉公に出たが、しばらくして両替屋に奉公した。文久3年(1863年)、独立して露天ながらも両替店を営み、その翌年、日本橋乗物町に鰹節玉子店兼両替屋を開いた。これを機に幼名であった岩次郎を善次郎と改め、安田屋と名乗った。 しかし、幕末に入り江戸の治安が悪くなっていった。強盗のたぐいが横行し、町の店は表通りも裏通りも、堅く表戸をおろし、休業する店が続出していた。そして金を扱う両替屋は、特に賊から狙われたのだった。江戸の両替の世界で確固たる地位を築いていた大手の店も休業するしかないというありさまだった。 安田善次郎の店も強盗に金をとられた。安田善次郎は自分も休業するかどうか悩んだ。しかし店を開けば危険も大きいが、その反面、独占のような状態になり儲けも大きい。 安田善次郎は考えた末、両替屋を開き続けることに決めたのだった。大手も休業してしまった今、両替を必要とする人々のためにも、お客の要求にこたえなければならないと思い、安田善次郎は腹をくくったのだった。 悪人どもに負けてたまるか!何としても日本有数の両替商になるんだ。という安田善次郎の決意の表れだった。そして日本橋の人形町では、安田善次郎の安田屋だけが、堂々と商売を続けているような格好になった。 そして事業は好調となり、日本橋小舟町に店を移転。両替屋を専業とした。 この頃、日本の金が大量に外国に不当に安い料率で流出しており、幕府率いる日本も大損失をこうむっていた。 欧米諸国では、金と銀との価格の比率が、おおよそ金1に対して銀15であるのに対し、日本国では銀が高く、金1に対して銀6ないし7の比率であった。 そして安政の条約には、こう規定してある。 1、各外国貨幣は日本の国内でも通用すべきこと。 2、外国貨幣と日本貨幣との対比は同種同量を以て通用すべきこと。 3、銅銭を除く外すべての日本貨幣は輸出せらるべきこと。 これにより、そのまま外国の貨幣が日本国で通用してしまう。ということは、外国商人にいつまでも金と銀を交換されたら、日本国が大損をしてしまうのだ。少量の銀で金と交換してくれる国など他に存在せず、日本は世界からみればカモ同然だっだ。 しかも、世界的に銀が多く産出されて銀貨の価値は下落して、1対16または20までの開きを見るようになってしまった。 そこで、幕府は金の純度を下げた貨幣を製造することにした。そしてそのための古金(古貨幣)の回収を行うことにしたのだった。本来は古金を回収し、新貨幣と交換をすることは、三井や小野組のような大きな本両替商の仕事であったが、このときは治安の悪化で皆店を休業していたため、安田善次郎にその大役がまわってきたのだった。 安田善次郎はこの仕事に尽力し、周囲からも同業からも急速に信頼を得ていった。 その後、徳川幕府が崩壊し明治新政府となった。しかし明治政府は軍資金や新政府に必要な費用をそのまま自力では手当てできず、金札(太政官札)なる不換紙幣を発行して、支弁に供していた。 しかし当時、国民は紙幣に不慣れで、また明治政府の信用が強固でなかったため、金札の流通は困難で100両紙幣は正金38両にまで下落してしまった。 そもそも紙幣というものが、うまく流通するかどうか自体が問題だった。 というのは、旧江戸時代の正貨は金銀銅の三貨で、商人も町人も紙幣に慣れていなかったからだ。紙幣が信用を得るためには、いつでも正貨と交換できるようにすることが必要だった。 そうすれば紙幣の信用は維持される。しかし、明治政府には紙幣の価値を保証するほどの正貨の蓄えなど全くといっていいほどなかったので、正貨との交換はしない不換紙幣とするしかなかった。 このため、この金札の価値はみるみる下落していったのだった。そこで明治政府はやむをえず紙幣の割引売買を厳禁することにしたのだ。 安田善次郎は明治政府が布告した「金札、正金の等価交換」の情報を、一般に知れ渡る前にいち早く知ったことにより、全財産を挙げて不換紙幣を大量に買い込み、後にそれらを約3倍の正貨と交換して大儲けをした。 そして明治2年頃、安田善次郎は質商も兼営し、抵当を取って金を貸すという金融業に乗り出した。機を見るに敏な安田善次郎は相場の下落した秩禄公債(政府公債)を質草として扱った。額面100円券が70円で売買され、これを取得すると利子がつくうえ、15年後の償還期日になると100円となって戻ってくるという具合だった。 そして明治5年(1872年)2月22日に、安田善次郎の安田商店は、両替店中最高級の地位たる本両替商となった。 露天で開業してから、6年目の快挙だった。そして、明治、大正の金融界の大物である渋澤栄一とも出会う。安田善次郎と渋沢栄一は時にはライバルとして、また時には、共に強く手を携えて歩んでいった。 明治9年、第三国立銀行を設立して開業免許を取得した。 しかし銀行とはいえ昔ながらの和風建築の店舗で、両替商時代と同じ暖簾を掲げた。12年には安田商店(安田屋)が安田銀行(後の富士銀行)に昇格し、株主は安田善次郎とその一族、縁故者で占めた。 また、共済500名社(安田生命の前身)を設立した安田善次郎は、金融を核としてその資産をふやしていった。 その後、安田善次郎は日本全国で百五十以上乱立された国立銀行のなかでも生き抜いて成功をおさめ、安田財閥としての地位を築いていくことになる。 安田銀行は後に富士銀行となり現在はみずほコーポレート銀行に。損保会社は現在の損害保険ジャパンに。生保会社は現在の明治安田生命保険に。 安田善次郎は、自分の天職を金融業と定め、私的に事業を営むことをしなかった。 だが、同郷だった浅野総一郎の事業を支援するなど、事業の育成を惜しむことも無かった。 また安田善次郎は日本電気鉄道や、帝国ホテルの設立発起人でもあり、東京電燈会社や南満州鉄道への参画、日銀の監事など、この時代の国家運営にも深く関わった 1921年(大正10年)に1921年、神奈川県大磯町の別邸で、金の無心に来た朝日平吾に刺殺された享年84(82歳没)。 東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地は安田善次郎の寄贈によるものである。 東大の安田講堂は、便所があまりにもお粗末であったため、これでは天皇行幸の折に失礼であると知って、安田善次郎が寄付を申し出たという。 また、安田善次郎は小野ヨーコの母方の曽祖父でもある。 安田善次郎の安田財閥は、現在の芙蓉グループにつながり、みずほ銀行、丸紅などが参集している。一代で三井、三菱に続く金融グループをつくりあげたのだった。 →安田善次郎のページTOPへ |
創業者たち メニュー 明治の創業者たち 大正の創業者たち 昭和と平成の創業者たち ※リンクフリー |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| Copyright (C)創業者たちの偉人伝 All Rights Reserved | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||